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シャマランのすごさとは何か

シャマランは「奇跡」の演出家である。
スリラーモノで有名過ぎるシャマランだが、彼の真骨頂は奇跡を起こすことである。
彼のこれまでの監督作品「アンブレイカブル」、「サイン」、「ヴィレッジ」、「レディインザウォーター」、「ハプニング」、「エアベンダー」まで、神がかった奇跡演出は他のどんな映画監督にも真似できない境地に至っている。
シャマランの映画の語り口は至極真面目で途方もなく真剣である。
まるでマイケル・ジャクソンが世界平和の実現を本気で夢見ていたように、シャマランの語り方もまた本気で世界を変えられると確信しているほどの真剣味なのである。
だが、彼が真剣になればなるほど、扱っている題材や日常に起こる奇跡演出の際立ちによって、彼の映画はよく、大変真面目な顔してかます渾身のボケとして成立するのだ(シャマラン的に織り込み済みかどうかは定かではない)。

エイリアンの侵攻、スーパーヒーローの誕生、宇宙人の侵攻など、現実を基準に考えればくだらない題材かもしれない。
現実にそんなことが起こったとして、まともに受け止める人なんて皆無だろう。

しかしこれがシャマランマジックを通すといかにも古いB級映画の題材を扱いながらも、極めて現実的な視点で物事が進行する。
アンブレイカブルではいきなり生存者であり、サインではいきなりミステリーサークル、レディ・イン・ザ・ウォーターに至っては精霊界と人間界が存在して二つが一つにならないと世界は救われないなどと冒頭にて宣言する。
わざわざ『これは現実である』と宣告するでもなく誰かのツッコミを受け止めるでもなく事態は容赦なく進行する。
既に、経緯はどうあれ、結果は、『そうなっている』ことが示されているのだ。
あり得ない光景。だが紛れも無い現実。
この超現実こそがシャマランの最強のマジックなんです。

ただし、そのあまりに現実離れした現実を見せられた人の多くが現実を受け止められずに脱落していく。

『バットや水で死ぬ宇宙人なんていねーよ!』

『なんであんた(シャマラん)が預言者なんだよw』

『風で死ぬわけないじゃん』

実際に宇宙人を見たこともない人が宇宙人が水で死んでる映像を見てんなわけ無いと背を向けてしまう。
シャマランにとって不幸だったのはメジャーになったシックス・センスだろう。
あのどんでん返しによって、以降多くの人が騙されないぞ!という視点でシャマラン映画を見たに違いない。
催眠術もかかるまいと最初から心に障壁を作ればかからないという。
まずは前提を信じることから始めなくてはいけない。




シャマランのエアベンダーは『これは現実だよ』ってのを全編通してやり込んでいる超現実シーンの連続だったのがスゴイ。
例えばブーメランって投げて当たったらふつうそのまま落ちるんですよ。戻ってこないんです。
エアベンダーでは当たってもちゃんと戻ってくるんですよね。さり気ない奇跡演出です。
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theme : 心に残った映画
genre : 映画

シュレディンガーのバットマン(ダークナイトライジング結末の解釈)

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ダークナイトライジングの結末では主人公であるブルース・ウェインが死んだのかどうかがよく話題になっているみたいです。

思ったのはノーランはこれを死んだ/死んでないのどちらかにするつもりは全くないだろうということです。

ノーランバットマン三部作には一作目と三作目の間に単体の作品『プレステージ』、『インセプション』を挟みます。
プレステージでは両主人公の半身は死に、もう半身は死ぬ。インセプションでは(これも議論を呼んでますが)結末は夢から覚めたか覚めなかったかは曖昧なまま終わる。そしてダークナイトでは永遠に決着のつかない二人の関係とヒーローが悪の汚名を被るコインの裏表を描いた。
ノーランは常に白か黒かの決着ではなく、相反する概念が同時に存在する状況を描いてきた監督と言えます。

ダークナイトライジングで重要なのはバットマンという闇に囚われた主人公がいかにしてそれを昇華するのかということだったと思います。これまで半分ずつの人生、正義と悪、現実と虚構の天秤を描いてきたノーランがライジングに至って選んだのは、闇に囚われたヒーローとしてのブルースと全てから解放された人としてのブルースだったのではないでしょうか。
だから自分が主張したいのはブルース・ウェインが死んだか否かという問題ではなく「バットマンとしての半身は死に、人としての半身は生きる」という概念です。

もちろんそれでも死んだか否かにこだわる人はそれでも全然いいんだと思いますよ。
そういう枠で話をするなら自分もブルースが死んだ方が話はすっきりするのかなって思いますしね。

theme : 映画感想
genre : 映画

借りぐらしのアリエッティは死神の物語である

『借りぐらしのアリエッティ』を映画館で鑑賞。

噂に聞いた通り、スタジオジブリの最新作はとても素直に見ることのできない意味不明な作品だった。
その原因はおおかた脚本の意味不明さにあるのだろう。
つまりは宮崎駿が悪いってことだけど。

物語序盤はわりと楽しめた。
面白い場所を絵にしてるなーなんて思ったり、小人の使う道具が面白かったり、とにかく美術だけはすごい。
若干の物理法則を無視したような気がしたのはまあ置いといて、わずかでも期待できるものがあったのは確か。
秘密基地のような家の壁の内部はなかなか面白い作りになっていて妄想を膨らまされる。

しかし、ティッシュの名前みたいなアリエッティがティッシュネタを披露するあたりから物語は完全に理解を越えたところにすっ飛んで行く。
ティッシュを引っ張る直後に人間の男の子に見つかるわけだけど、何をどう考えても見つかったのはアリエッティのせいじゃない。
ティッシュ箱に先に乗っていた父親はいったい何を考えていたのか。
そもそも見つかりやすい赤の服で出かけさせたのも怪しくはないか。
わざとアリエッティを見つからせるために誘ったのか。
そしてなぜ落ちこむアリエッティ。

ほぼわざと見つかりに行ったくせに食卓の席で両親はマジギレ。
『引っ越し先を探す必要があるかもしれない』、『人間に見つかるなんてぇぇぇ』など。
どう考えてもアリエッティを貶めるための『終戦に気づかず潜伏していた日本兵』コントをやっているようにしか見えない。
アリエッティもそれをマジに受け取っちゃうから両親ももう後には引き返せなくなっちゃう。
結果、代償として父は足を怪我、母は家政婦に捕まってしまうのだ。

よくよく考えてみればアリエッティの両親は本当の両親かどうかも怪しい。
数が少ないはずの小人にしては三人の核家族で暮らしていていいのか。
アリエッティは両親の歳の取り方から考えて本当に実の娘なのだろうか、大いに疑問である。

アリエッティが少年に体面するシーンはいよいよもって理解不能である。
あの場所の光の差し方といい、この世のものとはとても思えない。
少年は何を言い出すかと思えば開口一番

『君たちは滅びゆく種族なんだよwww』


バカにしてんのかこの野郎!マジアリエナイッティ!
とでも言いたくなる意味不明さ。
いよいよもってどこにいこうとしているのかわからない。

とそこに現れる家政婦の影。
家政婦は独自の勘でもって小人(アリエッティの母)を見つけ出してしまうのであった。
ここからさらにヤバいのは、まるでこれはこの家政婦のアイドル映画だよんって感じで完全に家政婦に焦点が移ってしまうことだ。
ふすまを開ける家政婦、映し出されるガニ股とケツ、終始ニタニタした顔の家政婦、少年の部屋のカギを締め暗躍する家政婦、捕まえた小人を瓶に入れる家政婦、清掃屋を呼ぶ家政婦、少年に詰め寄る家政婦、慌てふためきタコ踊りを踊る家政婦、ヘナヘナと座りこむ家政婦…全ての登場キャラクターの中でも明らかに表情や動きの気合いの入り方が一線を画している。
そしてこのシーンは事実上のクライマックスとなっていて、少年&アリエッティVS家政婦のサスペンスといえば聞こえはいいが、死ぬほど地味すぎて家政婦の不快感しか残らなかった。
ちくしょう、俺は家政婦見に来たんじゃねーぞ!

当初小人の視点で語られた物語は、ティッシュコントの先からはふつうの人間目線の視点に変わり、時には小人の視点と人間の視点の違いがわからなくなってしまったりと、終盤に近付くにつれてわけがわからなくなってしまう。

とここで私は重大なことに気づいてしまった。
アリエッティには一人、役どころがまったく意味不明なキャラクターがいるではないか。
それはスピラーという野生で他の仲間と暮らす小人である。

seihonnnoさんのブログ-スピラー

重要なのはその声優、藤原竜也である。
藤原竜也といえば映画版DEATHNOTEで有名な俳優である。
デスノートを使って様々な人間を死に至らしめてきた彼を起用した意図とは、彼の演じるスピラーがズバリ死神だからである。
後半からあまり姿を見せなくなった父親はすでに足を痛めたなどと言っていた時点で死んでいたに違いない。
そしてラスト、アリエッティたちはスピラーによってどこに連れて行かれるのかといえば当然三途の川なのである。
スピラーが言っていた仲間たちとはつまり、すでにこの世にはいない死者たちのことなのである。
ここまでくればもうこの物語はわかったも同然だ。
この世のものとは思えない不自然な庭や少年の台詞などを考慮するにあれはあの世とこの世の境目なのだ。
『借りぐらしのアリエッティ』とは今世を借りて住む人々、つまり宮崎駿版『ラブリーボーン』なのである。




(いみがわからん)

エアベンダーは近年まれに見る傑作童貞映画である

M・ナイト・シャマランの『エアベンダー』は彼のこれまでの作品同様、酷評の嵐に見舞われた。
しかも今回は原作ありのファンタジー世界が舞台ということで、シャマランのいつものどんでん返しを期待するファンからも反発されることとなった。
だがしかし、そうした人たちは得てして今作『エアベンダー』の真のテーマには気づいていない。

主人公の小坊主アンに注目してみよう。
彼についてまず目につくのは額の刺青である。
これはどう見ても矢印の刺青であり、その矢印が真下に指すものとは紛れもなく股間である。
つまりまず最初の段階で彼は性にまつわるドグマを抱えていることがわかる。

彼がなぜ修行を逃げ出したのかというと『まともな人の一生を送れなくなる』ということであった。
しかし、もうひとつ重要な証言がある。
『アバターになると家族も持てない』
生涯家庭を持つことはできない、また坊主である以上は女性との無闇な関係を持つことも出来ないことを考慮する。
ということはつまり、彼が修行を逃げ出した本当の理由とは『アバターになると家族も持てない』=『一生涯童貞のまんま』ということにあるのである。
土の国にて存在意義のいまいち不明な『アバター:キヨシ』像にも注目すべきだろう。
人々はアンに重大な発言をする。
『君の前(前)代、アバター:キヨシは遊び好きだったね。』
アバターは生まれ変わっても根本的な性質を等しくすることは気の国の寺院で証明済みである。
アンは前世において遊び好きだったからこそ、坊主として貞潔で在らねばならないことに不安を感じるのだ。
やはりアンは童貞のままでいるのが嫌で嫌で仕方がなく、それゆえ修行を抜け出してしまったのである。

アンのライバルとなる火の国のズーコ王子もまた重大な台詞を残している。
『アバターを連れて国に帰る。恋などその後です。』
彼は先の戦争で友人を庇い、王に追放された。
アバターを連れて帰らねば二度と王国に戻ることは許されない。
名誉を回復しない限り彼は一人の人間として生きていけないのだ。
なぜなら、彼もまた童貞なのだから。

童貞映画であると理解すれば、後半の勇み足な展開も多少の理解が増えるだろう。
アンと共に旅をするサカは水の国の王女と急激な恋愛関係に発展するも王女はすぐに死んでしまう。
多くの観客はこの展開に戸惑い、原作ファンは本来長丁場のエピソードを削られ怒り心頭だ。
だがこれは童貞映画だから当たり前のことなのである。
世界が危機に瀕する時にいいようにラブストーリーを展開する輩なぞ糞喰らえというシャマランなりの皮肉めいたメッセージなのだと推測できるだろう。

それよりもアンを見習うべきである。
自らの煩悩によって世界は100年もの間戦争が続き、お師匠さんも殺されてしまった。
もう後悔したくないとばかりに奮起し生涯童貞を受け入れるアンの姿には感動せざるを得ない。
クライマックスでの海水の湧きあがりにも注目(水とは生命の象徴であることも考慮したい)。
自らの性欲の澱でもあった湧きあがる大海のような『怒り』、それを『悲しみ』によって鎮めることで性欲とともに世界を調停するのだ。
額の矢印は輝き、怒りと悲しみが同居する。
その後の彼の姿はあまりにも美しい。
生涯童貞を貫くことを決意したアンはこれから待ち受けるであろう苦難への不安と覚悟が入り混じった表情で我々の前に立つのだ。

『エアベンダー』は単純にCGやストーリーにだけ注目して見れば近年のファンタジー映画と相違ないものと受け取られるかもしれない。
しかし『エアベンダー』はその背景にある『童貞を受け入れる』という悲壮な運命を直視することで、美しく、しかも力強い物語として我々を感動させるのではないだろうか。
プロフィール

achi

Author:achi
プロメテア教

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