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【PS4】アンチャーテッド 海賊王と最後の秘宝

「アンチャーテッド 海賊王と最後の秘宝」

PS4にて今年5月に発売されたゲームについて評価。

木曜洋画劇場のようなあるいはB級映画のような、軽快で御都合主義、派手なアクションと地味な謎解き、オカルトネタを振りかけたインディジョーンズみたいなゲームシリーズ。

海賊王と最後の秘宝は過去作の軽快な冒険活劇と変わり、引退後の生活、兄弟の再会、過去へのトライ、冒険の終わりと全体的にシリーズ終焉に向けての物語背景がある。その為、今までにない長い旅路に微かな悲壮感を抱えつつ秘宝を巡る冒険に旅立つことに。

プレイヤーを冒険に駆り立てる動機は主に兄弟の再会がきっかけとなる。それは兄弟が遠い昔に約束した秘宝への旅を再開すること、またその存在を知った麻薬王に秘宝の分け前を要求されること、かつての同業者が秘宝を狙っていることなど、これらが秘宝を手に入れる必要性をプレイヤーに提示する。

一方で主人公のネイトは既に結婚生活に入っており、命懸けの冒険に再度チャレンジするにはかなりのリスクを伴う。
過去作において、ヒロインのエレナはネイトがややためらいがちな場面にも、意外すぎるほど後押しして危険の先に進ませる人物だったのだけど、本作ではネイトの心情にややうしろめたい躊躇いを感じさせる存在でもある。
どちらかと言えば失うもののない兄のサムの方が、ネイトを主観にした時にかつての自分を思い出させるような冒険心に満ちているように思う。冒険への憧れと家庭への後ろめたさに挟まれて、すべての物語の終わりの気配を感じさせる。

それゆえに物語の最後のロケーション中に唐突に明かされる事実によって、プレイヤーがもはや秘宝を追う必要がなくなったのが悔やまれる。主人公には理由がなく、兄にはどうしても秘宝に拘る理由がある。その差を埋めるだけの思い出がプレイヤーには足りない。過去の出来事をなぞるチャプターがそれはそれでよく出来ていたとしても。

アクションシークエンスは相変わらずハイクオリティであり、能動的にプレイするゲームだからこそ熱狂できる驚異的な映像体験が随所にある。惜しむべき点は戦闘場面の少なさと移動シーンの長さによる間延び感。ハード移行に伴うグラフィック表現の豊かさは感じられるものの、過去作を収録したアンチャーテッドコレクションが秒間60コマなのに対して最新作が30コマなので、画面を動かしている状態ではあまり映像的に優れているとは言えなくて、これが操作性にも影響してくるせいか今一つに感じられる。
ロケーションの変化では過去作に習いつつも車両での自由移動など新しい試みもあるけれど、一つ一つのチャプターが長いので、過去作の目まぐるしく変わる土地、建物、風景、遺跡巡りに比べると趣向が変わりすぎるため、ひとによって大きく好みが違うと思う。

結果的にはいつものアンチャーテッドと言いたいところだけど、シリーズ最後ということでかなり無理してA級映画に持っていったような気がしなくもない。
てなわけで本作はちょっと微妙。シリーズ最高傑作はやはり黄金刀なのでした。

評:75点

さて一方でオンラインマルチプレイについてだけど、こちらは本編以上に面白かった。
何しろ秒間60コマでキャラクターが機敏に動く。操作性は抜群でストレスフリー。
コールオブデューティやバトルフィールドみたいな主観画面ではないので状況を把握しやすく、単純な照準精度や経験に左右されない自由度があるので初心者にも入っていきやすい気がする。武器はともかく味方の召喚、秘宝の使用、ブーストの組み合わせによって多種多様な立ち回りが発生するので単純化しにくい強みもある。
シリーズが終焉するとしてもこの手のゲームにはFPSに対抗して常に一定数供給される価値があると思う。おすすめ。
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『タラとレバ』というお芝居

以下、全て個人的なこと。

劇団milktoast+lab.5『タラとレバ』長崎公演11/11日(金)20:00~開演の長崎Verおよび東京公演11/19(土)17:00~開演の長崎Verを観劇。
東京公演は旅行が重なったことが幸いして観劇出来て本当に良かった。

作者の長野恵さんとは長い間連絡もせずこれまで何百と行われたであろう公演を一度も観劇に行ったこともなく、演劇から久しく遠ざかっていた自分なんかに地元での凱旋公演というお誘いを頂いたので吃驚して、かなりうしろめたい気持ちを抱えながらこっそり観劇に。

演劇の舞台を作るには脚本、役者、照明、音響、小道具、それらを成立させる場所・劇場、さらに運営する為の膨大な知識と経験とお金が必要になり、おそらく何よりそれだけのことを実現させる何かがないと出来ないことだと思う。何かとは演劇にかける情熱とか好きな気持ちとか好奇心とか創作の喜びとかお客さんの反応とか、それらをひっくるめた何か。観客でしかない自分には想像することしかできないけど。
だから地元長崎にまでやってきて公演することにどれほどの何かがあったのか、しかも複数の都県にまたがって行うなんて、とても自分の想像の及ぶレベルの何かじゃなくて観る前から既に驚愕する。作品の価値を判断するうえでその観方はフェアじゃないのかどうかはこの際どうでもいい。

脚本に関して、作者の周りで実際にあったであろうことと、作者のかけた思いをストレートに(かつオブラートに包みこんで)発言すること、劇中劇を同時に進行させ、さらに舞台の外(第四の壁)が取り払われること、それらすべてが集束していきながらも曖昧に留まる。それらはそこまで全部計算して作られた?偶然積みあがった?あるいは演劇人としての血がそう導くのか?聞いてみたくて仕様がないほどに構成が巧みに思う。

最初に観た長崎公演の際、脚本上のトラップにかかった。
トラップとは役者の一人が台詞を間違えて話の進行に収集がつかなくなる状況。本当は台本通りの展開。ナチュラルなというか素が出ているようで出ていないのか、(それもちょっと聞いてみたかったけど)もう十年以上も舞台を作ってきた方々にはとっては有り得ないはずのミスの有り得ないであろう状況が特に地元での公演(さらに初回目)ゆえに「有り得なさそう」で「有り得る」と思ってしまった。

失敗を上手くごまかそうとアドリブをする役者の下手上手さ...それさえも演技の一部であってちゃんと台本にも台詞が書いてある。すごい。...そんなトラップといっても単なる一芝居などでなく実質的にそれは物語の導入の一つや二つかいくつかでもあって、舞台上の空間を限りなく歪ませて舞台の外側(現実)までを取り込んで観客の人生と結びつけるという高次元の目的を達成するために行われたある種の魔法なんだと思う。魔法というとありきたりに聞こえるけど、インパクトとしては黒魔術だとか呪術とかネクロノミコンの類だとか言いたい。もちろん良い意味で。

また状況をごまかそうとするアドリブ(アドリブではないけど)に対する劇中何度も反復されるツッコミの台詞が、作品全体のテーマ、あるいは作者が伝えたい事、作者自身に問いかけていることでもあるはずで、なぜか別々の人物が話す同じ台詞は、反復されるほど暗示として強化されてより深く横たわってくる。「お芝居を途中で放棄しちゃだめ」「人生を途中で放棄しちゃだめ」お芝居は人生だし人生はお芝居でもあり...。

反復される台詞として劇中、役:長野恵として発言される「今度の劇で人生の限界に挑戦したいんです」とは、今回の公演でのしばらくの活動休止すること(人生を見つめなおしたいなどの作者の発言)などと思いっきり繋がってて、これもまたこの舞台を成立させる魔法のためにどこまでリアルを反映させていったんだろう。
舞台上の人間が不意に音響に声を掛け、役者が舞台から出て戻り、お芝居のついての説明さえ始めてしまうんだけど、それら全てが舞台の限界を超えるための仕掛けの数々のようで、作品に何重にも重なる入れ子構造(しかも現実まで封じる試み)に作者の頭の中は一体どうなっているんだろう?と考え始めるととても眠れなくなってしまう。

作品の舞台(時間)として2016.11.1とあり、その段階でまだ脚本出来ていないなんて台詞が出てきて、さすがにそれは無理だろう?とかひょっとして有り得る?とか舞台上の居酒屋の空間に役者さんたちの妙なリアルさがあり(別れ話なども)そんな細部までも虚構が現実を食い破ってるようで面白い。

カタルシスを感じた部分といえば、優しい嘘のくだり。作者が自身に問いかけているのかもしれない他人に対する漠然とした不安や自身の人間性への疑問を抱く人物として存在し、それが後に主人公に思いっきり発言させるブスのくだりと「滑っただけよ」にかかってきているのかななんて思ったり。
作者は脚本のすべてを知っていても作者自身のことは知らない。でもこの作品に反映された作者自身の人間性は観客が知ることになるのかなとか思ったり。

今回、演劇という表現形態について考えさせられたことがあるんだけど。言っても演劇からとっくの昔に離れていた自分が言うには本当におこがましいことだけど、映画のように記録された文化ではなく、ある特定された作者、役者、スタッフ、年齢、日時、場所の瞬間にしか演劇作品は存在しないなら、作品は誕生と同時に消えてしまい、その舞台を作った人々とその瞬間を観に来た観客の記憶の中にしか存在し続けることができない。ならば人生の限界、演劇の限界に挑戦するということは、その瞬間に立ち会った人達の、いつまでも記憶に残る、人生に影響する作品を産み出すことなのかなと思う。
結局はすべてを知っていると思われる作者の頭の中にしか答えはないので、やっぱり色々聞いてみたいんだけど、聞いてもいいのか?とか答えてくれるのか?とかそもそも自分で答えを考えるべきなんじゃないかと逡巡する。「いきねば。」なんていうどっかで聞いた言葉が思い浮かぶような希望と呪いの両方を受けたような夢のような気分で、なんとかこうやってその気分が消えないうちに感想とも悪態ともつかない文章を書いているんだけど、どれだけ書いても書き足りる気がまるでしない。当然。

比較して悪いが園子音監督の「地獄でなぜ悪い」は現実と映画が交錯して夢が実現されていく物語だけど、長野恵さんの「タラとレバ」は現実と演劇と作者と観客の世界とが交錯してしかも目の前には銀幕ではなくそこに実際に役者が立って観客の世界を巻き込んでいる。いまそこにある現実と地続きになっていることの意味がこれ以上深く強く表現された作品は少なくともこれまでの自分の人生には存在しなかったし、自分にとってあまりにも傑作過ぎた。おそらく不特定多数の誰彼が観ても少なからず多くの人がそう思うと思うけど。
だけど映画と違ってお芝居は記録されない芸術だから、もし仮にこの作品を録画して再生してもそれはお芝居の映像であってお芝居そのものにはなり得ず、もはや誰かに勧めることは出来なくなってしまった。こんなに面白くて価値のある作品でももう、自分の記憶の中、人生の中でしか作品を捉えることが出来ないなんて、どうしようもない幻肢痛を抱えて込んでしまったような気さえしている。この痛みを緩和する為にもう一度自分で何かを創作したい、創作に携わってみたいと強く思ってしまう。
きっと本作品としてはそんな大層なことをおしつけているわけじゃなくて今の人生をまっとうに生きろと言っているのだろうけれど。

今こうやって文章を書いているのは記憶の中にしか残らない作品の断片だけでも、共感されなくてもせめて自分の現実に残しておきたいのと、感謝の気持ちを今できる形だけでも表現したいという思いに駆り立てられているからだと思う。自分にもう一度演劇の面白さを思い出させてくれたことには感謝しかなくて、ずっと昔にお芝居を放棄してしまった(どころかスタートラインにすら立てなかった)自分にはこのお芝居を成立させた人々があまりに眩しすぎてファナティックな感情と後ろめたさが乱立してとても辛い。
これで結びにしたくないというか書き足りないことは山ほどあるのでそのうちまた折に触れて書くこともあるかもしれないけれど。というかこの劇は間違いなくこの先人生で何度も思い出すことになるんだろうと思うと幸福と憂鬱が鳴りやまない。

劇団milktoast+は暫く活動休止ということで、自分にとっては何だか急に現れて消えていったような感覚で、ああもっと早くに観に来ていたら・・・なんて後悔が湧いてきます。
活動休止中に何が起こっているのか知る由もありませんが、また再開する時には観に行くので応援しています。勝手に。





以下、勝手に気になること
チノセイ(おばさん)の隣にいた子供の姿を主人公は想像してタラとレバという精霊に見立てた?その辺の関係性
公演は3都市、シナリオが3つ、展開も役者も変わる、全て見たかったなーなど
ギャグの滑りは伏線?それとも滑り芸に合わせた脚本?
優しい嘘について
自分で自分を?ブスって言いきってしまう、メタ化してしまうこととか
活動休止の先にあることとか
園子音の影響?とか
プロフィール

achi

Author:achi
プロメテア教

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