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『タラとレバ』というお芝居

以下、全て個人的なこと。

劇団milktoast+lab.5『タラとレバ』長崎公演11/11日(金)20:00~開演の長崎Verおよび東京公演11/19(土)17:00~開演の長崎Verを観劇。
東京公演は旅行が重なったことが幸いして観劇出来て本当に良かった。

作者の長野恵さんとは長い間連絡もせずこれまで何百と行われたであろう公演を一度も観劇に行ったこともなく、演劇から久しく遠ざかっていた自分なんかに地元での凱旋公演というお誘いを頂いたので吃驚して、かなりうしろめたい気持ちを抱えながらこっそり観劇に。

演劇の舞台を作るには脚本、役者、照明、音響、小道具、それらを成立させる場所・劇場、さらに運営する為の膨大な知識と経験とお金が必要になり、おそらく何よりそれだけのことを実現させる何かがないと出来ないことだと思う。何かとは演劇にかける情熱とか好きな気持ちとか好奇心とか創作の喜びとかお客さんの反応とか、それらをひっくるめた何か。観客でしかない自分には想像することしかできないけど。
だから地元長崎にまでやってきて公演することにどれほどの何かがあったのか、しかも複数の都県にまたがって行うなんて、とても自分の想像の及ぶレベルの何かじゃなくて観る前から既に驚愕する。作品の価値を判断するうえでその観方はフェアじゃないのかどうかはこの際どうでもいい。

脚本に関して、作者の周りで実際にあったであろうことと、作者のかけた思いをストレートに(かつオブラートに包みこんで)発言すること、劇中劇を同時に進行させ、さらに舞台の外(第四の壁)が取り払われること、それらすべてが集束していきながらも曖昧に留まる。それらはそこまで全部計算して作られた?偶然積みあがった?あるいは演劇人としての血がそう導くのか?聞いてみたくて仕様がないほどに構成が巧みに思う。

最初に観た長崎公演の際、脚本上のトラップにかかった。
トラップとは役者の一人が台詞を間違えて話の進行に収集がつかなくなる状況。本当は台本通りの展開。ナチュラルなというか素が出ているようで出ていないのか、(それもちょっと聞いてみたかったけど)もう十年以上も舞台を作ってきた方々にはとっては有り得ないはずのミスの有り得ないであろう状況が特に地元での公演(さらに初回目)ゆえに「有り得なさそう」で「有り得る」と思ってしまった。

失敗を上手くごまかそうとアドリブをする役者の下手上手さ...それさえも演技の一部であってちゃんと台本にも台詞が書いてある。すごい。...そんなトラップといっても単なる一芝居などでなく実質的にそれは物語の導入の一つや二つかいくつかでもあって、舞台上の空間を限りなく歪ませて舞台の外側(現実)までを取り込んで観客の人生と結びつけるという高次元の目的を達成するために行われたある種の魔法なんだと思う。魔法というとありきたりに聞こえるけど、インパクトとしては黒魔術だとか呪術とかネクロノミコンの類だとか言いたい。もちろん良い意味で。

また状況をごまかそうとするアドリブ(アドリブではないけど)に対する劇中何度も反復されるツッコミの台詞が、作品全体のテーマ、あるいは作者が伝えたい事、作者自身に問いかけていることでもあるはずで、なぜか別々の人物が話す同じ台詞は、反復されるほど暗示として強化されてより深く横たわってくる。「お芝居を途中で放棄しちゃだめ」「人生を途中で放棄しちゃだめ」お芝居は人生だし人生はお芝居でもあり...。

反復される台詞として劇中、役:長野恵として発言される「今度の劇で人生の限界に挑戦したいんです」とは、今回の公演でのしばらくの活動休止すること(人生を見つめなおしたいなどの作者の発言)などと思いっきり繋がってて、これもまたこの舞台を成立させる魔法のためにどこまでリアルを反映させていったんだろう。
舞台上の人間が不意に音響に声を掛け、役者が舞台から出て戻り、お芝居のついての説明さえ始めてしまうんだけど、それら全てが舞台の限界を超えるための仕掛けの数々のようで、作品に何重にも重なる入れ子構造(しかも現実まで封じる試み)に作者の頭の中は一体どうなっているんだろう?と考え始めるととても眠れなくなってしまう。

作品の舞台(時間)として2016.11.1とあり、その段階でまだ脚本出来ていないなんて台詞が出てきて、さすがにそれは無理だろう?とかひょっとして有り得る?とか舞台上の居酒屋の空間に役者さんたちの妙なリアルさがあり(別れ話なども)そんな細部までも虚構が現実を食い破ってるようで面白い。

カタルシスを感じた部分といえば、優しい嘘のくだり。作者が自身に問いかけているのかもしれない他人に対する漠然とした不安や自身の人間性への疑問を抱く人物として存在し、それが後に主人公に思いっきり発言させるブスのくだりと「滑っただけよ」にかかってきているのかななんて思ったり。
作者は脚本のすべてを知っていても作者自身のことは知らない。でもこの作品に反映された作者自身の人間性は観客が知ることになるのかなとか思ったり。

今回、演劇という表現形態について考えさせられたことがあるんだけど。言っても演劇からとっくの昔に離れていた自分が言うには本当におこがましいことだけど、映画のように記録された文化ではなく、ある特定された作者、役者、スタッフ、年齢、日時、場所の瞬間にしか演劇作品は存在しないなら、作品は誕生と同時に消えてしまい、その舞台を作った人々とその瞬間を観に来た観客の記憶の中にしか存在し続けることができない。ならば人生の限界、演劇の限界に挑戦するということは、その瞬間に立ち会った人達の、いつまでも記憶に残る、人生に影響する作品を産み出すことなのかなと思う。
結局はすべてを知っていると思われる作者の頭の中にしか答えはないので、やっぱり色々聞いてみたいんだけど、聞いてもいいのか?とか答えてくれるのか?とかそもそも自分で答えを考えるべきなんじゃないかと逡巡する。「いきねば。」なんていうどっかで聞いた言葉が思い浮かぶような希望と呪いの両方を受けたような夢のような気分で、なんとかこうやってその気分が消えないうちに感想とも悪態ともつかない文章を書いているんだけど、どれだけ書いても書き足りる気がまるでしない。当然。

比較して悪いが園子音監督の「地獄でなぜ悪い」は現実と映画が交錯して夢が実現されていく物語だけど、長野恵さんの「タラとレバ」は現実と演劇と作者と観客の世界とが交錯してしかも目の前には銀幕ではなくそこに実際に役者が立って観客の世界を巻き込んでいる。いまそこにある現実と地続きになっていることの意味がこれ以上深く強く表現された作品は少なくともこれまでの自分の人生には存在しなかったし、自分にとってあまりにも傑作過ぎた。おそらく不特定多数の誰彼が観ても少なからず多くの人がそう思うと思うけど。
だけど映画と違ってお芝居は記録されない芸術だから、もし仮にこの作品を録画して再生してもそれはお芝居の映像であってお芝居そのものにはなり得ず、もはや誰かに勧めることは出来なくなってしまった。こんなに面白くて価値のある作品でももう、自分の記憶の中、人生の中でしか作品を捉えることが出来ないなんて、どうしようもない幻肢痛を抱えて込んでしまったような気さえしている。この痛みを緩和する為にもう一度自分で何かを創作したい、創作に携わってみたいと強く思ってしまう。
きっと本作品としてはそんな大層なことをおしつけているわけじゃなくて今の人生をまっとうに生きろと言っているのだろうけれど。

今こうやって文章を書いているのは記憶の中にしか残らない作品の断片だけでも、共感されなくてもせめて自分の現実に残しておきたいのと、感謝の気持ちを今できる形だけでも表現したいという思いに駆り立てられているからだと思う。自分にもう一度演劇の面白さを思い出させてくれたことには感謝しかなくて、ずっと昔にお芝居を放棄してしまった(どころかスタートラインにすら立てなかった)自分にはこのお芝居を成立させた人々があまりに眩しすぎてファナティックな感情と後ろめたさが乱立してとても辛い。
これで結びにしたくないというか書き足りないことは山ほどあるのでそのうちまた折に触れて書くこともあるかもしれないけれど。というかこの劇は間違いなくこの先人生で何度も思い出すことになるんだろうと思うと幸福と憂鬱が鳴りやまない。

劇団milktoast+は暫く活動休止ということで、自分にとっては何だか急に現れて消えていったような感覚で、ああもっと早くに観に来ていたら・・・なんて後悔が湧いてきます。
活動休止中に何が起こっているのか知る由もありませんが、また再開する時には観に行くので応援しています。勝手に。





以下、勝手に気になること
チノセイ(おばさん)の隣にいた子供の姿を主人公は想像してタラとレバという精霊に見立てた?その辺の関係性
公演は3都市、シナリオが3つ、展開も役者も変わる、全て見たかったなーなど
ギャグの滑りは伏線?それとも滑り芸に合わせた脚本?
優しい嘘について
自分で自分を?ブスって言いきってしまう、メタ化してしまうこととか
活動休止の先にあることとか
園子音の影響?とか

コメントやりとり

ブログのコメント欄でのやりとり。

【リンク】この世界の憂鬱と気紛れ

【映画】マレフィセント

いつもの自分ならまず観に行かないであろう映画「マレフィセント」を見る機会があった。

ナレーションだけで物語の重要な起点をことごとくカットしていく手法が恐ろしく暴力的。

マレフィセントがなぜ悪になるのか。
その過程は絶対に必要なはずなんだけど思いっきりスルーされている。
過程をすっ飛ばした重要な点は大きく二つあると思う。

1・マレフィセントが最強になるまで
2・少年が野心を抱くまで

1アニメーションでならそのままで問題ないだろうけど、実写になるとさすがにキツイ。
まるで邦画の下手な原作リメイクを見ているような気分にさせられる。
ロリ妖精がナレーションを挟んで最強のスーパーサイヤババアに変身する繋がりのなさに、明らかに映像が耐え切れていない。

2貧乏な少年が王室に近づくのは並大抵のことではないはず。
しかも貴重な指輪を棄ててまで会いに来るような少年が王を目指すほどの野心を抱き、親友の身体をもぎ取る犯罪に至るには、それこそ何かとてつもないきっかけがあったと考えるべきだ。

特に二つ目はその後の展開全ての原因だ。
この世に悪が存在するという理由になるはず。

でもディズニーはそれらを描写しない。
必要だと思っていないから。自分たちの正しさや強さや美しさが真実だと思い込んでいるからだ。
ディズニー映画はその感覚が下品さとして現れる。

王になったかつての少年を単純に「悪」と切り捨てて、最後は誰もその存在に責任を取りたくないから一番嫌な死に方をさせてしまう。
そのどうしようもなく無自覚で絶対的な暴力を振るうこの映画は子供には見せるべきじゃないな~と、思いました。

評:☆

ディズニー映画には元々そういう下品さはよくある。
美女と野獣のイケメン人間などは特に度を越していて面白かったけど。

映画館に行かない。

映画を観てない。

正確には映画館に行ってない。

どれだけ行ってないかというと、今年まだ一回も映画館に行ってない。

きっかけはいくつかあった。

映画好きなデヴォン殿が映画観なくなったこと。
それ以前に、ど田舎住みの自分には、映画を通して知り合える友人がいなかったこと。
更にリアル友人に映画好きな者がいないこと。
更に更に、みんな映画館に行くほど金持ってないこと。
地方は都会より一人あたり所得が低いので、映画館での映画鑑賞は相対的に高い娯楽となること。
お金持ってる友人も、映画にわざわざお金払いたいと思ってないこと。
もともと映画の鑑賞料金は他のあらゆる娯楽に比べて高いこと。
消費税増税に伴ってただでさえ高い映画鑑賞料金がさらに高くなったこと。
映画館に行く時間がないこと。
週末は混んでるので入りにくいこと。
売店のポップコンや飲み物は高いし好みじゃないこと。
映画館まで遠いこと。
PM2.5で外出しにくいこと。
自宅にそこそこの鑑賞環境を整えたこと。
映画館ではリラックスできないこと。
おしっこしに席を立ちにくいこと。
映画に時間とお金を使ってる間に他のあらゆるジャンルで機会損失し続けること。
得るものもあれば失うものもあるが、失うものが多かったこと。
映画泥棒の広告が毎回映画館に行きたくなくなるほど嫌いだったこと。

以上のような理由から映画館に行かなくなってしまった。

こうして挙げてみると、これだけネガティブな理由があっても映画館に行ってた今までの方が、不自然に努力をしていた感がある。
これまでの情熱の源泉は、たぶんシャマランマジックだろうなあ・・・と決め付けつつ、今後マジックに出会う機会に再び映画館に訪れたいと思う。

【PS3】ラストオブアス




昨年のゲームオブザイヤーに輝いたノーティドッグの傑作「ラストオブアス」について。

キノコ人間ゾンビによって廃墟と化し荒廃したアメリカを舞台に生き残りをかけてサバイバルを続ける人間の物語。

プレイヤーは中年男性の主人公ジョエルとして相棒の少女エリーと共に荒廃した土地を彷徨う。
オープンワールドのような進む方向が360度ではなく、リニア系として一本道のゲームだが、意外にもこれがオープンワールドよりも重厚で巨大な世界観を作っている。

ラストオブアスにはゲームの構造として階層化された目的が存在する。
勿論第一は生き残ることだが、その為には果たすべき目標や安全な目的地が明確に存在し、プレイヤーに目に見える形でそれを提示する。
プレイヤーは今、居る場所から安全を確保できるであろう目標地点(議事堂や橋など)に向かわねばならない。
しかしその為には隔離区域外を管理する米軍兵士、食料を奪う為に殺人を犯すハンター達、そして菌に脳を食われたゾンビといった、これまた明確な危険(障害物)が立ちふさがる。
廃墟の中で限られた物資を調達し、武器を工作し、残り少ない銃弾、あるいは落ちてるレンガや角材を駆使しながら障害を排除/乗り越えて目的地に到達する。
まるで、スーパーマリオブラザーズでマリオがクリボー、ノコノコを倒し、崖を越え、クッパ城に向かうかの如く、目的地と障害物が明確なゲームシステムが確立されているのだ。※

生き残る為には、仲間と落ち合う必要がある、その為に目的地に向かう、その為にまず目の前の敵を殺す(その為にまず背後に忍びよる…etc)。
こうした場面場面での目的の階層が入れ替わることで、極限環境下での生き残りを賭けたサバイバル感に拍車をかけているのだ。


評:100点

ゲーム性で問うならメタルギアソリッドVは本作を越えられるのか気になる。


※ラストオブアスは一部の敵を除き、マリオと同様敵を殲滅しなくても先に進める。
※難しく不快感のあるマリオ水中ステージと直後の陸上ステージでの一転した快感と同様、ラストオブアスの暗く菌糸に覆われた地下と抜けた後の晴天の空の心地よさは近く、緩急バランスよく作られている。


The Last of Us (ラスト・オブ・アス)The Last of Us (ラスト・オブ・アス)
(2013/06/20)
PlayStation 3

プロフィール

achi

Author:achi
プロメテア教

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